小田原北条(後北条)とは 

  

小田原を本拠地とする北条家は小田原北条または後北条と呼ばれます。これは、鎌倉幕府の執権  職を代々務めた北条家と区別するためです。北条時宗や北条政子が有名ですが、こちらは単に北条、あるいは鎌倉北条と呼ばれることもあります。

 

小田原北条(後北条)は北条早雲を始祖としていますが、北条早雲は北条を名乗ったことはなく伊勢新九郎盛時が本名です。のちに早雲庵宗瑞と号し、これから北条早雲と一般に呼ばれていますが、伊勢氏から北条氏に改姓したのは、第2代の氏綱の時からだと考えられています。かって、北条早雲(伊勢新九郎)は、氏素性もはっきりせず裸一貫で戦国大名にのし上がった戦国の梟雄とされていましたが、現在では桓武平氏の伊勢氏の出で、足利幕府政所の執事を務めていた名族の出身と判明しています。鎌倉北条も伊勢平氏の出でとされており、同じ伊勢平氏の出身という意味では、遠い血のつながりがないわけではないと考えられています。

 

こうした伊勢氏が北条に改姓したのは、当時相模国守護であった扇谷上杉氏に代わって相模の国を支配するためには、成り上がり者の梟雄のイメージを払拭するため、かって鎌倉幕府の歴代執権を務めた北条姓を名乗ったものと考えられています。紋所も同じ三鱗を用いていますが、小田原北条の紋所は、鎌倉北条のそれが正三角形であるのに比べて二等辺三角形と言われており、北条鱗あるいは三つ盛り鱗といわれていますが必ずしもその区別は厳格ではありません。

 

小田原北条家は早雲以来、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代、約100年にわたって関東の覇者として君臨しましたが、1590年、豊臣秀吉の小田原征伐により3ケ月の籠城の末開城、秀吉の軍門に下りました。これをもって小田原北条家は100年の歴史を閉じますが、自分の命と引き換えに家臣、領民の命は助けてくれとの五代当主氏直の降伏申し出に秀吉は感服し、主戦派の父氏政、叔父氏照その他に切腹を命じたものの、氏直は高野山に追放、謹慎を命じています。その後赦され一万石を給されますが、間もなく病死し、氏直に子がなかったため叔父の氏則が後を継ぎのちに1万1千石の大名として明治まで続きました。小田原北条家は、一般的には和戦いづれかを決しかねていたずらに評定を重ね意思決定が出来ず、包囲された後も,まともな戦もしないまま降伏したことであまり高く評価されていませんが、五代の歴史を見るとなかなか大した大名で、四代の氏政の時代には、伊豆、相模、武蔵、下総、上総北半、上野、さらには下野や駿河、甲斐、常陸の一部も領有して、石高240万石に達したと言われています。上杉謙信や武田信玄の進攻にも屈せず、これらを撃退しています。また、領国経営においても、民生に対する配慮が厚く、年貢の比率も当時一般的であった六公四民や五公五民に比べて小田原北条家では四公六民であったと伝えられています。さらに、五代約100年にわたって、親子、兄弟、親族の抗争がなかったことも当時としては珍しいことだと言われています。